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2021.08.27 #メンバー紹介

【コドモンの代表 ~前編~】人生かけて価値あることを。「唯一無二」を目指すコドモン代表のこれまで

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【コドモンの代表 ~前編~】人生かけて価値あることを。「唯一無二」を目指すコドモン代表のこれまで

これまで「コドモンの中の人」シリーズで多くのメンバーを紹介してきましたが、満を持してようやく! 代表の小池をご紹介いたします。

コドモンメンバーも知らない、ちょっと不器用な子ども時代や、起業を志したきっかけなど、詳しく教えてもらいました。 コドモンというプロダクトが誕生するまでの過程にあったエピソードや、代表の人柄をお伝えできればと思います。

起業家の原点は営業のアルバイト 社会の厳しさを知った学生時代   

———よろしくお願いします!まずは小池さんの子ども時代のお話から伺ってもよろしいですか?

よろしくお願いします。私は兵庫県宝塚市で生まれました。両祖父がともに経営者という環境に影響を受けて、幼い頃から「自分もいつか経営者になるのだろうな」と思っていました。小学校4年生ごろの作文で「ひたすら頑張って努力していれば、いつか社長になれる!」と書いた記憶が今でもあります。といっても、このあと努力だけではどうにもならない現実を知ることになるんですけどね(笑)。

大学受験の際にはひとり暮らしに憧れて、実家から遠く離れた神奈川の横浜国立大学に進学しました。国立大学を目指したのは、両親に金銭的負担をかけないようにという気持ちもありましたね。

大学時代は勉学はさておき、家庭教師の派遣会社での営業のアルバイトに熱中していました。その会社は数名の社員と大学生を中心として運営される形態で、学生もみんなスーツを着て、営業から教師手配、教師管理、CSまで幅広い業務を担当していました。

その中で営業部に所属していた私は、横浜中のお宅に訪問して生徒の現状を伺い、成績向上や志望校合格に向けたアドバイスやプランニングを行いながら、家庭教師の契約をしてもらうといった仕事を担当していました。ほぼ毎日16:00〜24:00ごろまで働いては、退勤後にバイト仲間と飲みに行って、午前は大学に行って夕方にはまた出勤……という生活を繰り返しており、当然、大学のテストはいつも赤点ギリギリでしたね(笑)。

一生懸命取り組んでいたものの、実際の営業成績は最下位でした。自分より後に入った同僚に追い越されるたびに、自身の営業スキルやコミュニケーション能力が劣っていることを痛感して、すごく悔しかったのを覚えています。

結果、大きな成果を上げることなく2年ほどでそのアルバイトは辞めることになります。一方で、そこでの挫折経験や優秀で視座の高い仲間と出会えたことは、今振り返ると大きな財産で「田舎育ちの坊っちゃん」から脱却し始めた期間でもあったと思っています。

———就職活動はどのように取り組みましたか?

とにかくがむしゃらに働けて成長できる環境を目指し、業界は問わず6〜7社を受けた記憶があります。最終的には中小企業向けのコンサルティングを行う「ベンチャー・リンク」という会社を選びました。残念ながら今では倒産してしまって存在しない会社です。

なぜその会社を選んだかというと「企業家輩出機関」「入社3年で独立を」といったわかりやすい採用キャッチコピーに共感したというのと、面接時に出会う社員全員がかっこよく、憧れを感じたからです。将来的には起業しようと考えていたので、こんな会社で働けたらどれだけ成長できるんだろうとわくわくしたのを覚えています。

それから「ベンチャー・リンク」は当時上場企業だったのですが、新卒で上場企業に入るという選択をした理由には親への感謝の気持ちもあります。私は小さい頃からぼけっとした子で、歩き始めるのも自転車に乗れるようになるのも遅く、何かと親に心配をかけていたこともあって、手厚く育てられたように感じていました。だから国公立大学に行って最低限きちんとした会社に就職して、恩返ししたいという気持ちもあったんです。

社会人5年目で2社立ち上げ 自信のない自分を変えたのはひたむきな努力

———新卒時代はどんな仕事をしていたのですか?

いつか起業をして世の中にまだないサービスを作り広めるには、なによりも営業スキルやコミュニケーション能力は必要だろうと思っていたため、不向きであることは承知で営業職を強く志望し、全国の中堅中小企業に飲食店のフランチャイズ権を販売するという新規営業部門に配属されました。

そこでは、使い古された営業リストに対し、ひたすら架電やFAX、DM郵送を行い、反響先に訪問営業をするという、典型的な新規開拓営業をしました。当時は夜中まで働いて会社に寝泊まりするのも珍しくなかったのですが、新卒だったこともあって違和感なく「能力がない分は時間で稼ぐんだ」と思って働いていました。今とは時代背景も違いますし、そのような働き方はもともとの希望通りでもあったので、がむしゃらに働いていましたね。

それでも大学時代のバイトと同様、やっぱり成果を出せずにいました。今考えると、先輩や上司の言うことを素直に受け取れない、不健全なプライドが成長を阻害していたように思います。結果、訪問営業部隊からは外され、当時は裏方的存在だったリード獲得に専念する部門、今でいうマーケティング部に所属する時期が2年ほど続きました。

経営セミナーを企画したり、集客用のチラシやセールスレターを作ったり、ネット検索をして営業確度の高いリストを作ったり、提案書を作ったり、そこでの経験を通してマーケティング感覚が養われ、結果、後の起業時の顧客開拓に大きく役立つ事になります。

ただ当時は、営業としてフロントに立たせてもらえない悔しさが常に付きまとっていて「いつかはもう一度……!」という想いでひたすら努力を重ねて……。その成果か、しばらくすると、新規訪問を行う機会を再度いただけるようになりました。

やっと会社に営業として利益貢献できるという嬉しさに加えて、お客さまで尊敬する素晴らしい経営者から「小池さんの提案だから買うんだよ」といった信頼されていると実感できるお言葉をいただき、失っていた自信を取り戻すことができました。そうしてお客さまと誠実に向き合う姿勢が作られて、一人前程度には結果を出せるようになったのが社会人5年目。ここで改めて、起業を本格的に考えるようになりました。

とはいえ、正直なところ当時ひとりで起業するのは怖くて、同じく同時期に起業を考えていた仲のよい同僚4人と事業プランを壁打ちしているうちに「というか、俺たちそれぞれ会社を作るんではなく、4人で一緒にやったら成功確率は上がるんじゃないか!」という話になり、25パーセントずつの持ち株で起業したのが起業家としての第一歩。26歳のときの出来事です。

———初めて起業してからは、どんな日々を過ごしていたのですか?

最初は、外食業界向けの人材紹介ビジネスを始めました。サラリーマン時代の経験から、外食事業での人材採用には大きな課題があると実感をしていたので「手持ち資金のいらない外食専門の人材紹介ビジネスがいいんじゃないか?」と半ば勢いで動き出しました。

といっても、求職者集めは人材業界経験もない素人が始めるにはあまりにも難しく、経費がかかる上に当初の目標を達成するのは極めて難しい状況でした。知人のつてなどを辿り、起業後半年後にはなんとか月次で黒字が出せる状況にはなりましたが、事業としては不安定。そこで私は人材紹介とは別にもう一つの収益の柱として、採用支援サービスを立ち上げようとします。

ここでいう採用支援というのは、採用課題を持つクライアントに対して、マイナビなど求人媒体の紹介とともに採用専用のWebサイトの提案をするサービスです。対象となるターゲットを選定することで、すぐにいくつかの受注をいただくことはできたのですが、当時は社内に制作部門などなく、Web制作会社を経営する先輩に業務委託する形を取りました。

私はクライアントの会社や社員の取材、写真撮影、Webサイトの構成、コピーライティングを含む記事作成までを担当しており、走り回って頭をひねる日々。それでも制作部分を外注してしまうと得られる利益は多くなく、数をこなしても思うように業績が伸びていかない苦しさがありました。

事業として収益を上げるためには内製化が必要だ!と思い、当時30万円したAdobe社のWeb制作ソフトウェアを勢いで購入して、自分で制作も担当する事にしました。もともとデザインやものづくりが好きな性格でしたし、Adobeの制作事例動画がとても簡単そうだったのでできるだろうと思ったのですが……もちろんそんなに簡単ではなく、先輩のすごさやありがたみを強く感じましたね(笑)。

とはいえ事業を収益化させるという目標に向け、受注案件の制作を通して必死で勉強しました。初心者がお金をいただいて制作をするというプレッシャーと戦いながらひたすら勉強して、1か月ほどで納品した記憶があります。納品時、笑顔で受領してくださった当時のお客さまには本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

そういったことを繰り返し、4・5か月で一通りのWeb制作ができるようになっていました。知人からもWeb制作の依頼が飛んでくるようになり、それなりの売上も出るようになりました。スキルが高まっていく楽しみ、自分の収益が会社を支えている自負も結構あって楽しかったです。

そうこうして起業して1年があっという間に経った頃、そろそろみんなで今後について合宿をしようということになりました。その中で、私は「これからは採用支援サービスやWeb制作事業をより拡大していこう」と提案し、みんなも受け入れてくれると思ったのですが、実際はまったく賛同を得られず。

ひとりは焼き芋屋をやりたい、ひとりは投資にチャレンジしたい、ひとりは草刈り代行業が儲かりそうと話していて……(笑)。「あ、この会社、全然まとまってない」とみんな気づいたんですね。

全員もともと個別に起業を考えていたメンバーだったので、そもそもまとまるわけがなく、同じビジョンを描けない中で一緒にやっても仕方ないよね、ということで、私は会社を抜け、新たに起業をすることになります。形としては空中分解に近い結果となりましたが、諸々の整理で一切揉めることなく解散できたことは、当時の仲間に感謝しかありません。

「社会に価値のあることをしたい」 探し続けて見つけた答えとは 

———改めて、ひとりで起業することに不安はなかったのですか?

セールス・マーケに関しては「よい営業リストを作り、アプローチ方法を工夫して、適切な商品サービスを提案すれば売れる」という自負がありましたし、Webサイトやチラシの制作など、ある程度の制作は自前で低コストでできるイメージも持てていました。そういう背景から「なんとかなる」と思っていたので、自分ひとりで起業することへのハードルはあまり高くなかったです。このとき27歳ですね。

ただ、当時のお客さまから「ひとりで起業するのではなく、もうひとりいたほうがいい」と教えられ、紹介してもらった人と2人で起業して「スパインラボ」という会社ができました。

スパインは「背骨」、ラボは「研究する・突き詰める」という意味です。「骨のある仕事をしたい」「お客様の屋台骨を支える本質的な課題解決のパートナーになりたい」という想いで名付けました。業種はWeb制作を中心としたセールスプロモーション支援です。

といっても、残念ながらWeb受託は思うようには売れなくて……DMを送っても反応がなく、架電営業をしてもガチャ切りされていた記憶があります。一方でWebではなく、紙のチラシの制作は価格競争力が高く受注を伸ばすことができました。

当時はまだ知名度が低かったネット印刷を使うと、一般的な制作会社よりも半額程度の見積もりで印刷ができたんですね。「チラシのコストダウンします」「名刺安くします」といった価格競争ど真ん中のマーケティングに振り切ったところ、反響・成約率ともに上がって、ひとまず事業継続ができる体制になりました。

チラシや名刺の刷り見本で事務所がいっぱいになるくらいに紙の受注が増えた時期もあり、おかげで今でも紙を触っただけでなんという名前の用紙でどのくらいの斤量なのかが分かるようになりました(笑)。この経験を経て名刺、ポスティングの代行、折込チラシの代行、Web制作……このあたりを「なんでもできます」という会社になって。そこから人も少し増えて4〜5人くらいの人数規模になりました。

———少しずつ事業が成長しているように見えますが、実際どうだったのでしょうか?

そうですね……。実のところ「思い描いていた経営者になれていない」と、もどかしい気持ちでいました。

とても記憶に残っているのは、起業して2、3年経った頃の出来事。とある経営者の会に呼ばれ、自己紹介をすることになったので「チラシと名刺制作の会社をやっています。Webサイトも作れます」と言ったのですが……。自分で言って気づいてしまったんです。「世の中になくてはならないサービスを作り、広げる」という想いで起業したはずなのに、自分のやっていることはユニークではないぞ、と。

徹夜をしてチラシや名刺を作っているけれど、受託制作をやっている会社は他にもたくさんある。自分の制作物は、一流のデザイン会社と比べたら、クオリティも決して群を抜いて高いわけでもない。今の会社がなくなっても、そこまで困る人はいない。なんのために起業をしたんだろうと……。

この自己紹介がきっかけで「社会的に価値の高い事業をしたい。自分が死ぬ直前に、価値があることをやりきったと思いたいし、そう言われて見送られたい」と強く意識するようになり、自社プロダクトを作りたいと考えるようになりました。

といっても何から始めればよいか分からず「まずはたくさん使ってもらえるサービスを作ろう」と思い、手探りで色々なサイトを作るようになりました。クーポンまとめサイトやコインランドリー検索サイトなど90個くらい作ったのかな。たまたま1つ目に作ったサイトが月数万円の広告収益が出るようになり、「同じようなサイトを量産したら……」と考えたんですね。この時期は受託で収益を上げつつ、空き時間はずっと新しいサイトを作成するチャレンジをしていましたね。

そういった状況で亀山さんがジョインしたのが2014年、スパインラボを立ち上げて5年目のときです。亀山さんには「自社プロダクト作りたい、そのための採用だ」と伝えていて、そのときには自社プロダクトへの思いが強くなっていたんだと思います。

———コドモンプロトタイプができたのがこの頃でしたよね?

はい、そうです。「ベンチャー・リンク」時代の先輩がプロサッカーリーグの関連会社で社長をしていたのですが、同期のハワイの結婚式でたまたま再会し「ITやってるんだったら、子ども向けスクールの連絡ツールを作ってみないか」と声をかけてくれたんです。もちろん快諾し、湘南にあるプロサッカーチームの運営するサッカースクール向けに1,600名の保護者がwebでアクセスしてスクールからの連絡を受け取れるシステムを納品しました。これが今思うとコドモンプロトタイプ第一弾となります。

その後、同先輩が岡山にある私立中高向けにも、同様の保護者連絡システムを作らないかと提案してくれたので、ここでも同様のサービスを提供しました。

そうこうしているうちに、先輩が大手学校法人に移籍したんですね。そこで先輩から「新しく日本一の設備が備わった認可外保育園を立ち上げる。そこでこれまでの知見を生かしてこれまでにない新しい保護者連絡システムを入れられないか」と話を持ちかけられたんです。予算も取れるとのことだったので、保護者連絡に加え、成長管理機能、写真販売、登降園管理、請求管理機能や施設予約機能など潤沢な機能を搭載したシステムを約1年かけて作らせていただくことが出来ました。これがいわゆるコドモンプロトタイプ第二弾となります。 

納品して実際に稼働している状況を見ながら「保護者にも先生にも喜ばれる、これは社会に求めらているサービスではないか」と思ったんですね。このサービスが全国に広げられれば、社会的に価値のあることをしたいという願いが叶えられるんじゃないかと思いました。

そこで先輩を通して納品先に許可をいただいて、スパインラボの自社プロダクトとしてSaaSモデルに作り直し、展開をはじめました。普通は絶対に許可されないような相談を社内調整して通していただいた先輩には感謝ですし、ここで止まっていればコドモンがリリースされることはありませんでした。

サービス名には色々悩みましたね。保育園がお客さまだから日本的な名前にしようか、親しみやすい名前がいいかな、何が売れやすいかな……といろいろ考えていて、最終的に「コドモン」と「お守り地蔵」の二択になって。当時、先輩経営者とうどん屋で食事中「どっちがいいですかね?」と相談したら「絶対コドモンがいいよ!」と言われて、晴れてコドモンに決まりました。

コドモンという名前はちょっとかわいすぎるかなと、サービス名を口にするたびに照れたりもしましたが、メンバーからは「コドモンでよかった」と言われますね(笑)。

———そんな経緯があったんですね。コドモンに決まって本当によかった(笑)!

まとめ

改めて小池さんのお話をじっくり聞き、ここに至るまでの歴史を感じた時間でした。小池さんの記事を書くという構想は以前からあったのですが、実は小池さんから「恥ずかしい」と辞退されており……(笑)。コドモンの中の人の記事を30以上出したところで、ようやく小池さんの紹介ができて嬉しい限りです!

メンバーからは「アイデアマン」「経営者としての判断力がすごい」「仕事が早すぎる」と言われることの多い小池さん。成功するまでチャレンジし続ける努力家で野心的な側面と、感謝の気持ちを忘れずつながりを大切にする性格をお伝えできたでしょうか?

後編では、コドモンがどのように成長してきたのか、その先でどんな社会を目指しているのかをお伝えします! ぜひご覧ください。

最後までご覧いただきありがとうございました!

(写真:2020年9月、小池さん40歳のサプライズお誕生日会の様子)

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